修復前
修復後
「初音の調度」の総称で親しまれる国宝、徳川美術館所蔵の千代姫婚礼調度類は、3代将軍徳川家光の長女・千代姫が寛永16(1639)年、数え3歳で尾張徳川家2代光友へ嫁いだ際に持参した婚礼調度の一群です。
『源氏物語』の「初音」の帖を意匠とした蒔絵調度が47件、「胡蝶」の帖を意匠とした蒔絵調度が10件、そのほかの意匠の蒔絵調度、長刀や刀剣、染織品など合わせて70件あります。
このうち、初音蒔絵の書棚2基と胡蝶蒔絵の書棚1基の計3基を6年かけて修復いたしました。
ここでは、龍膽[りんどう]七宝繋の棚囲いを持つ初音蒔絵の書棚を事例として紹介します。
【作品概要】
材質:木製、黒漆塗り、梨子地に蒔絵装飾
時代:江戸時代、寛永16(1639)年
法量:高さ 111.5㎝、縦(奥行) 46.1㎝、横(幅) 92.3㎝
附属:外箱1合(倹飩扉、漆塗り、内側紙貼り、車輪付きの受け台付き)
3段の違い棚と地袋を設けた書棚。
棚囲いは龍膽七宝繋文様の透かし彫り。
全体を梨子地に仕立て、様々な蒔絵技法を駆使して春の御殿の寝殿と庭園を描き、葵の紋を散らしています。
鶯や散らし文字(葦手文字)、一部の梅などは彫金であらわされています。
本作品は紅梅の表現に珊瑚が使われているのが特徴で、もう一つの初音蒔絵書棚とはまた違った、華やかながらも可愛らしい表情を見せています。
地袋 修復後
【施工期間・場所】
期間:2017~2022年度のうち約2年
場所:九州国立博物館内 文化財保存修復施設4および6
【事前準備】
書棚などの棚類は漆芸文化財の中でも大型の部類に入ります。
今回の修復事業にあたって、九州国立博物館のご協力により、書棚の大きさに合わせた保管庫(漆風呂)を新設していただきました。
新設した漆風呂と胡蝶蒔絵書棚
【主な損傷状況】
・表面の汚れ(埃、カビなど)
・金貝や珊瑚の剥離・剥落
・漆塗膜の劣化
・木地構造の損傷(痩せ、弛み、亀裂など)
・漆塗膜の剥離・剥落
・漆塗膜と下地の欠損
・扉の損傷(擦れ、木地の反り、割損など)
・金具の浮き
・外箱の扉の亀裂
【処置内容】※おおよそ時系列です。
<クリーニング(1回目)>
毛の柔らかい刷毛などを用いて、表面に付着している塵や埃を払い落としました。
漆塗膜に付着しているカビ汚れなどは、柔らかい木綿布や綿棒に極少量の水を含ませて少しずつ拭きとり、除去しました。
過去に意図的に付けられたと思われる灰色の汚れが全面に見られ、特に蒔絵や珊瑚の際に多く付着していました。固着しているため、水分を与えてヘラで崩してから綿棒などで慎重に除去しました。
埃払い
蒔絵際の汚れの除去
<金貝・珊瑚の膠接着>
浮いている金貝や外れている珊瑚は膠で接着しました。
<金具の取り外し、歪みの調整>
木地構造の損傷により浮いてしまっている正面左隅の金具を取り外し、変形してしまっている箇所を修繕しました。
取り外した隅金具
革で保護し、変形箇所を曲げ戻す
<木地構造の安定>
経年により各木材が収縮したり歪んだりすることで、割れや亀裂、隙間が生じます。
接合部の亀裂箇所には、粘度の高い麦漆を溶剤で希釈して含浸し、安定させました。
棚板の割れや地袋内の大きな隙間には、麦漆に木粉などを加えた刻苧を充填して接着安定させました。
支柱と棚板の接合部に麦漆を含浸
棚板の割れを刻苧で充填接着
扉、木地亀裂箇所に麦漆含浸
ハタガネで圧着固定
<天板と支柱の接着>
天板と支柱の接合部分が4か所のうち3か所で外れていたため、麦漆で再接着を行いました。
天板と支柱の間に麦漆を入れる
天板の自重と重しで圧着固定
<書棚を寝かせての作業>
底裏や棚板裏、地袋の奥など、書棚を立てたままでは処置しづらい部分も多くあります。
一度書棚を寝かせて、クリーニング、構造の安定、塗膜の接着、欠損箇所への充填と整形、仕上げと処置を行いました。
書棚を寝かせた状態
底裏、水拭き
地袋鴨居、水拭き
框部分、亀裂箇所に麦漆含浸
地袋の奥、亀裂箇所に麦漆含浸
底裏、刻苧充填
棚板の割れ、裏側から刻苧充填
底裏、下地付け
底裏、水研ぎ
<塗膜の接着(剥離・剥落止め)>
亀裂箇所や欠損箇所の周辺の塗膜が剥離しているため、粘度の低い麦漆を溶剤で希釈して、塗膜下に流し込み、接着しました。
地袋内の亀裂箇所、剥離塗膜に麦漆含浸
竹ひごを使った圧着固定
<欠損箇所への充填と整形、下地付け、仕上げ>
亀裂箇所と欠損箇所には、刻苧を充填して整形しました。
漆下地を付け、平滑になるまで砥石で水研ぎを繰り返して表面肌を整えました。
欠損箇所とその周辺の塗膜(現状の最上面の塗膜)との段差を緩和し、触手による再剥落を防止するため、塗膜際に極少量の漆下地を付けました。
框部分(背面側)、欠損箇所を刻苧で充填・整形
扉、下地付け
棚板の亀裂箇所、下地付け
同箇所、水研ぎ
<漆固め(艶の回復)1>
塗膜の強化と艶の回復のため、扉、敷居、鴨居の擦れた箇所に漆固めを行いました。
漆を擦り込んだ後は、表面に余分な漆が残らないようにしっかりと拭き取りました。
敷居は木地が露出して擦れが目立っていたため、露出している木地にのみ重ねて黒漆で漆固めを行い色調が黒くなるように調整しました。
扉の擦れ、漆固め
敷居の擦れ、漆固め
<正面左の隅金具の取り付け>
まず、金具との隙間に引っ掛かっていた剥落片を正しい位置に戻し接着しました。周辺の隙間には刻苧を充填し、漆下地で引っ掛かりのないよう整えました。
正面側では木地構造の損傷により棚本体と金具の間に隙間ができ、金具の先が浮いている状態でした。薄い朴材を金具の輪郭に合わせて成形し、見える部分には黒漆を塗りました。
釘穴は緩くなっているため埋木し、隅金具と薄材をともに釘で打ち止めました。釘は再利用しました。
金具取り外し後、引っ掛かっていた塗膜片
安定した塗膜片と成形中の薄材
成形後の薄材、1つの釘穴で留まるように調整
縁に黒漆を塗った薄材
釘穴の埋木
金具取り付け後
<クリーニング(2回目)>
珊瑚や高蒔絵の際に意図的につけられたと思われる汚れの除去を中心に再度クリーニングを行いました。
先の細い綿棒で汚れの除去
使用した綿棒の一部
<漆固め(艶の回復)2>
天板、棚板、扉、立ち面(側面や背面など)の梨子地漆の塗膜のうち、劣化が目立つ箇所に漆固めを施しました。梨子地漆と素黒目漆を混合して透きと乾き(硬化具合)が良い漆に調整し、溶剤で希釈して、塗膜が劣化している箇所に塗布し、余分な漆が残らないようにしっかりと拭き取りました。
※事前に目立たない所でテストを行い、調合した漆の色調などを確認した上で広範囲の処置を行っています。
光が当たりやすく特に劣化が進行していた天板には3回、棚板には2回、扉と立ち面には1回行い、艶を回復させ、全体の質感を統一させるように処置をしました。
天板、1回目の漆固め
しっかりと拭き取る
天板、漆固め前
天板、3回の漆固め後
<扉の開閉調整>
木地構造の損傷などにより地袋の扉の取り扱いが難しくなっていました。
所有者様が安全に取り扱いできるよう、扉の動きを確認し、負荷をかけずに取り外しできる位置を記録しました。
左扉の取り外し位置を定規とともに記録
<外箱の修繕>
埃を払い、水拭きのクリーニングを行いました。
剥がれていた内貼りの紙は糊で接着しました。
受け台の車輪と側面が当たり木地が露出している箇所には、木の粉が落ちないよう漆固めを施しました。
扉の割れにより生じた隙間には桧の薄材を入れ、麦漆で接着を行いました。薄材には漆固めを行い、色調を全体に合わせました。
受け台、クリーニング前
受け台、クリーニング後
車輪で削れた箇所の漆固め
桧の薄材を麦漆で接着
扉表、埋木後
扉裏、埋木の漆固め後
<3基並べての最終確認と調整>
今回の修復では書棚3基を一括でお預かりしたため、1基ずつ処置をした後、最終年度(6年目)に横並びにして確認と調整を行うことができました。
クリーニングの度合いや艶の回復度合いに偏りがないかを確認し、追加でクリーニングや漆固めを行うといった統一感を持たせるための調整を行いました。
書棚三基を並べた状態
天板、追加のクリーニング
天板、追加の漆固め
ビニールハウスの中で乾燥(硬化)
<報告書の作成>
修理前、修理後はもちろん、修理中も写真撮影を行い、処置記録を取ります。
修復前後を比較できる報告書を作成し、作品返却と同時に提出しました。
【科学的な調査】
ここでは割愛しましたが、修復にあたって、X線CTによる構造調査や剥落片などの顕微鏡観察も行いました。
構造調査に関する内容を本年(2023年)大阪にて開催の第45回文化財保存修復学会にて発表予定です。